index >> 小説置き場「悪夢は」 >> 翼

 

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 あと一時間、いや30分もすれば闇が訪れる、そんな黄昏の空の元、彼はある高いビルの屋上に立った。彼は空を見上げると、背中から翼を展開した。それは、白く、美しい、白鳥のような翼だった。その翼は彼の自慢の翼だった。他の者の羽は、あるいは蜻蛉のもののようであったり、あるいは蝙蝠のもののようであったり、彼の羽のように大きく力強く、そして優雅なものではなかった。  

傾いた屋上の端で、彼は軽くコンクリートを蹴った。翼が低い音を立て、彼は静かに空へと舞い上がった。彼はその美しい白い羽で、誰よりも遙かな高みに登ることができるのだ。上へ、上へ。下を見下ろす。街が、遙か下方に小さく見える。街。街であったもの。雲のかかる空を抜け、まだ上へ。彼はどこまでも上へゆくつもりだった。星の見える空へと。

 上昇速度がにぶくなる。彼は気づく。大気が薄くなっていることに。とたんに息苦しさを感じ始める。息などしていないのに。ちりちりと、皮膚に何かがあたる。体を突き抜けていく、宇宙線。見上げれば、星。下に青い、大地。ここで、止まってしまった。上に行こうと欲しても、行けない。押し返されてしまう。彼は思う。こんなに大きな羽をつけているのに、やっぱりこの重力から、地上から離れられない、と。下降もせず、上昇も出来ずに彼は浮かびながら、星を見やる。赤い星、青い星。とらえる波長を変えると、さらに深い、遠い星が見えてくる。あふれるほど、圧倒的な量。どこまでも、どこまでも、広がる、空。

 ふと、何かが近づいてくることに気がついた。人工衛星だった。羽の角度を変え、そちらへ向かう。小さな、今はもう何も機能していない、落ちて燃え尽きるのを待つだけの、重力に捕まった空のゴミ。衛星の上にそっと降り立つ。少しずつ、地上に引かれていく。

 星を見上げながら、思う。ここは、重力の縁なのだと。あと、少し。ほんの少しだけ、外にでれば、きっとここから飛び出せるのだ。でも、ここにはもう翼でかくための気体がない。手を振る。かすかには、ただよう分子があたる。彼は思いだす。宇宙は、何もない完全な真空ではないと。手で、分子をかき集める。すぐ逃げていってしまう。

 彼は、息を吸い込んだ。口を開け、分子を集め、翼に送る。少しずつ、翼に力がみなぎる。どのくらいそうしたことだろう。彼は、ふと、飛べる、と思った。畳んでいた翼を展開し、力を込めて思い切り人工衛星を蹴る。そして、翼から、エネルギーを与えた粒子を噴射した。圧倒的な加速。彼はめまいを感じる。と、同時に突然自分の方向が分からなくなる。どこに向かっているのか、動いているのか、止まっているのか。思わずつむっていた目を開けると、星々が回転していた。回転を止めようと、少しずつ粒子を噴射する。やっと回転は緩やかになる。それと同時に、彼は、自分が世界の中心になっていることに気がつく。彼が回転しているのではなく、世界が回っているのだ。彼が移動しているのではなく、世界が移動しているのだった。彼は、自分が世界になってしまったような気がした。

 空に漂いながら、緩やかに回転する星々をみる。きっと、あの星の中の、一番近い星にたどりつくのさえも、何百万年もかかるかもしれない。それでも、彼は行ってみたいと思った。自慢の翼を広げ、その翼面に星間物質を受け止めながら、目の前の、遙か遠いところに光る赤い二連星を目指して飛び立った。

 

(2000/9/10)

 

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