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戻りたい

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 私はどこにいる。暗い闇の中。ドアがある。開けて出た外は。真夏の日射し。アスファルトの焼ける臭い。暑い町を歩く。

 人気のまるでない。夏の道。喫茶店の中へ。暑さからの解放。

 そこは整然と机の並べられた部屋。誰もいない。ひんやりとした教室。俺は廊下へ出る。黄昏時の金の光がクリーム色の壁を照らす。

 廊下の先を、人影が横切った。
 長い髪の女の子。

 T字の廊下、人影が消えた右には、突き当たりに開いた扉。
 扉から外へ出る。

 そこは草原、やわらかい光、心地よい風。僕は何しにここへ来たんだろう。虫とり? 鬼ごっこ? 誰もいないのは、なぜ。

 声が聞こえた。楽しげな声だった。薄暗い林の中を歩いている。

 目の前を通り過ぎる黒い髪。

 あの女の人だ。その人は左へ行った。そこにはお堂があった。扉を開く。

 突然、子供達の楽しそうな声があたりに満ちる。そこは、デパートのおもちゃ売り場。見本のゲームに群がる子供達。勝手に動いては喋り、芸をするロボット。てんでバラバラに流れ、あふれる、歌、音楽。そして無機質の効果音。

 ここには何でもある。欲しい物はみんな。僕はデパートの中じゃおもちゃ売り場が一番好きだ。ずっといても飽きない。何時間でもここにいたい。

 「――でもあなたはここにいることは出来ない」
 その声に私が振り返ると、そこにはあの女の子がいた。
 長い髪の、うつろな目で私を見つめている女の子。
 黒のマントに黒の帽子、この華やかな場所にまったくそぐわない"いでたち"をしていた。
「なぜだ? "ぼく"はここにいたい」
「ここはあなたの住む世界ではない。
 ここはただの幻の空間。
 様々な人々の記憶からこぼれ落ちた夢の集合。
 そしてあなたは一時(ひととき)ここを訪れただけ。
 あなたの心の隙間がそれを欲したから。
 さあ、もう去る時が来た
 ――――――――――」

 私は、夜の駅、ホームのベンチに座っていた。眠り込んでしまっていたのだろうか。あわてて時計を見る。ところが、ベンチに座る前に確認した時刻から、一分もたっていなかった。
 私は目を閉じて、さっきの夢――夢なのかあれは――の間忘れていた現実を思い出した。
 家と会社との往復の単調な日々。この歳になって同僚との出世スピードの差は歴然としていた。家に帰っても心が安まることはない。家族との溝は広く深くなっていく一方だ。たまらない。悪夢のような現実。いっそ、こっちが夢で、さっきまでの夢が現実ならばよかった。いや、夢なら夢で覚めなければよかった。思わず深いため息をついてしまう。あの夢の中の世界へ戻りたい。

「そんなにあそこへ戻りたいの」
 私は思わず体をこわばらせた。声は、私の横からした。ゆっくりと目を開け、そちらへ視線を移すと、そこには、私の一つとばした隣の椅子に座っていたのは、あの、長い髪のうつろな目をした女の子が座っていた。
 彼女はぼんやりと対面のホームを眺めていた。
「君は――君は誰なんだ?」
 彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。その白い肌の、きれいに整った顔は無表情だった。
「なぜ君があそこにいたんだ? なぜ君はここにいる? 私は、あそこにいたのか? あれは夢じゃなかったのか。なぜ私を起こしたのだ、なぜ私を連れ戻したのだ」
 自分でも訳の分からない衝動に駆られて矢継ぎ早に詰問した。冷静に考えれば、ベンチに座る前に彼女を見ていてそれで夢の中に現れただけなのかもしれないのに。しかし、あの言葉は。なぜあの夢のことを知っている。

「――私が連れ戻したのではない」
 彼女は、静かに、諭すように話した。
「私はあの時言ったはず。あなたはただあそこを訪れただけなのだと。
 あの世界はまだ固定されていない空間、儚い夢の世界。
 そしてあなたの世界はここ、ここがあなたの属する場所。
 たとえどんな悪夢でも、自分の現実からは逃れることは出来ない。
 ただ・・・その存在を止めない限りは」

 私は茫然として立ち上がった。私はもうあの世界へは帰れない。しかしこの悪夢の現実を受け入れることはもう出来ない。彼女の最後の言葉。私は、それに従った。

 ホームに入って来る電車。ヘッドライトの光、急ブレーキの音。考えることをやめた頭に彼女の言葉が聞こえてきた。
「――あなたに言わなかったことが一つある。魂は往々にしてその元の世界に縛られ、重力から逃れることが出来ない――粒子のかけらまで意識が分散して宇宙に還るまで――」
 私に終わりが来た。

 

(1991/5/12)

 

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