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幻の館、悠久の一瞬

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 この林には初めて来た。自転車で、でこぼこな緩い坂道を登りながら、僕は今までの"人生"のことを考えていた。たいした大人から言わせればそんな歳ではない、と言われそうだが、どんな人間にとってもそれまで生きてきた時間が人生なのだ。
 林はまばらな細い木が連なっている。行けるとこまで行こう。そう決めて自転車を走らせていたが、いっこうに終わりにはならない。どこまで行くのだろう。それは人生も同じだ。誰にも分からない。

 と、唐突に視界が開けた。高い塀に囲まれた、大きな洋館。門は施錠されておらず、開いていた。
こんなところに住む人がいるのか? 僕は驚き、自転車を降りた。門の脇に自転車を止め、辺りをうろうろする。自動車がある気配もない。さりとて、無人というわけでもなさそうだ。門から一歩入ればよく手入れがされた前庭が広がっている。僕は、ちょっとした冒険心で門をくぐってしまった。

「お帰りなさいませ、ご主人様」
唐突に僕の後ろから声がした。しまった、人がいたんだ、と思ったがもう遅い。ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには、現代の日本には似つかわしくない、でもこの洋館にはぴったりな、一人の、美しいメイドが立っていた。
「どうでしたか、町は。お取引はうまくいかれましたか?」
「え、いや、あの、僕は、ごめんなさい、ちょっと何だろうと思って」
「お帰りが遅かったのでこうして門でお待ちしていました。さあ、どうぞお屋敷の中に入ってお休みください」
そのメイドは謎めいた微笑みをたたえながら僕の手を握って洋館へと向かう。その手は柔らかかった。
「あ、あの」
「夕食の支度は済んでいますので、ご主人様には紅茶でもお飲み頂き、少し疲れを癒して下さい」
 メイドは洋館の扉を開けると僕を中へ招き入れた。僕は、そう言えば自転車をこぎ通しで大部疲れていることに気がつく。
「……紅茶、頂きます」
「どうぞ、そちらのテーブルでお待ち下さい。すぐにこのフランチェスカめがご用意いたします」
 私はフランチェスカがキッチンの方へ下がるのを見届けると、今日の取引のことについて思いを馳せる。フランチェスカが言っていたが、少し難儀な取引だった。……取引? 何の取引だったろう。僕は……。
「ご主人様、どうぞ、紅茶がご用意できました」
「ああ、フランチェスカ、ありがとう。ところでフランチェスカ、少々尋ねたいのだが、今日私はなんの取引で町まで降りたのだったかな?」
「いやですわ、ご主人様。それはご主人様の胸のうちにしまってあること。いつか時がくれば思い出すことでしょう」
「そうか……そうだったな」
私は紅茶を口にする。フランチェスカの淹れる紅茶は絶品だ。香りが特にいい。
「フランチェスカの紅茶を口にすると、気苦労が吹き飛ぶようだよ」
「ふふふ、ほめてもせいぜい夜のアリアの声が少々響くようになるだけでございますよ」

 やや早めの夕食だが、フランチェスカに誘われるままに頂くことにする。
「フランチェスカ、この肉は変わった味がするが何の肉かね」
「イールカンガルーのテールでございます。瀬戸内海で捕れた、産地直送ものでございますよ」
「……こっちの根野菜はずいぶん不思議な形をしているが?」
「あら、それは根野菜ではございませんよ。地潜りウサギといいまして、くちなしうさぎ科の種子が太くなったものでございます」
 ……フランチェスカは時々変わった食材を調達してくる。ただ、どれも丁寧に調理されているので絶品だ。

「ご主人様……」
「なんだね、フランチェスカ」
私はソファでくつろぎながら、『果てしのない物語』を読んでいた。
「今日のお取引のことですが、それが是であれ非であれ、時間が全て解決してくれること」
いつになく真剣な顔でフランチェスカが話しかけてくる。
「人生は運命や宿命ではなく、サイコロのようなものでもなく、さりとてラプラスの悪魔に支配されているのでもなく。意志はありてあるもの、必ず道は開けます」
「フランチェスカ……」
 私は、その思い出せない取引のことを考えながら、フランチェスカの言葉を考える。
「さ、ご主人様、もう遅い時間でございます。お休みになられたほうがよろしいかと存じ上げます。わたしが、ご主人様の好きな一人の少女と青い生き物の物語を寝物語に語ってさしあげましょう。ご主人様はこれを聞くと涙をこぼしながら眠りにつくのでその寝姿がいとおしゅうございます」
「フランチェスカ!」
私は少し怒ったふりをしながら立ち上がる。
「あらあら、冗談が過ぎました。失礼いたしました。さ、寝室の方へどうぞ」

「らん……らんらん…らんらん」
 誰かの歌声で私は目覚めた。柔らかい朝日が寝室に満ちている。体を起こすと、フランチェスカが軽く寝室をモップがけしていた。
「お目覚めですか、ご主人様。朝食の準備はできております。食堂のほうへどうぞ」
「さっきの歌は?」
「歌ですか? ああ、あれは前の主人が好きだった、『主よ、人の望みの喜びよ』でございます」
 前の主人? 私はいぶかしげに思いながら、ベッドから起き上がる。

 昼が来て夜が来てまた朝が来て。春が過ぎ、夏が来て、秋の気配を感じ、冬が訪れ、また春が来て。悠久の時が流れる。あいかわらずフランチェスカは美しく、そして食事はおいしく、屋敷は優しく私を包み込んでくれた。
 ある日、私はめったに立ち入らなかった休憩室に久しぶりに立ち入った。確か――初めて――初めて? 紅茶をフランチェスカに淹れてもらって――飲んだ部屋――だ……。
 テーブルの上に、きれいに服が折りたたまれておいてある。子供用の服だ。誰の服だろうか。私は手に取って広げて見る。すると、一枚の紙がひらひらと床に落ちた。なんだろうか、と思って手にとると、それは、受験票だった。
「!?」
受験票の名前を見る。それは、それは、自分の名前だった。あの時、僕は、受験に失敗したと思い、自暴自棄になってたださまよっていたのだった。
「ご主人様」
 振り向くとフランチェスカが悲しそうな目をして立っている。
「フランチェスカ! あの日から何日経っている!?」
「何日……何ヶ月……何年でしょうか」
「そんな、そんな、僕は……」
「ご主人様」
声が耳元でした。横を振り向くと、フランチェスカが僕の両肩をしっかり掴んで言った。
「このお屋敷はご主人様の世界と時が切り離された世界、ひととき迷い人を受け入れる場所、もしも、ご主人様が元の世界へとお帰りになりたいと願うのなら、それはすぐにかないます」
「僕はまだ受験の結果も見てないんだ」
「心の整理はつきましたか?」
僕は力強くうなずいた。
「ではその服に着替えて」
僕は急いで服を着替える。フランチェスカはあの柔らかい手で僕の手を取ると、屋敷の扉を開け、門まで引っ張って来た。
「ご主人様、あそこに、門の外にご主人様の自転車があります。この門を出ればまた元の時間線へと戻ることができるでしょう。でも、それは、もうわたしに会えないことを意味します」
「フランチェスカ……フランチェスカ、ありがとう、僕はここを出るよ」
「ご主人様ならそう言うと思いました。さあ、日が暮れぬうちにお帰りなさい」
「うん」
僕は門を出て自転車に飛び乗った。下り坂を進む。途中、振り返ったが、そこには、ただの木々しか生えてなかった。

 結局僕は、志望校に合格していた。自分の"出来"が悪いときは、みんなの出来も悪い、というやつだ。あの日家に帰りついたのは夕食時を大部過ぎていて、親にひどくしかられたが、でも僕は胸のつかえがとれていい気分だった。

 あれから何ヶ月たっただろう。新しい通学路にも慣れ、新しい友達も出来、ただ一瞬だけの幻だったあの出来事は次第に記憶の底に沈んでいった。ただ、フランチェスカの微笑みは忘れられなかった。

 ある日、帰宅が遅めになり、慣れない時間帯の駅のホームで電車を待っていた。そこに、線路をまたいだ向こうのホームに、彼女がいた。フランチェスカが。

「フランチェスカ!」
 僕は力一杯叫んだ。線路の向こうのホームの端で彼女が振り向いた。
 その途端、全ての電車が止まり、全ての人々は止まり、全ての空気が止まり、全ての時間が止まり、静寂があたりをつつんだ。
 階段を駆け上がり、マネキンの群れをよけ、階段を駆け下りる。まだ彼女がその場に存在することを祈りながら。
 彼女は……いた。私を見つめ、あの、いつかの不思議な微笑みをたたえたまま。
「フランチェスカ」
「ご主人様、お久しゅうございます」
「……会いたかった……もう一度会いたかった」
「わたしも」
 ただ、私は、彼女に会ってどうするつもりだったのだろうか。またあの屋敷へと戻るつもりだったのか? 全ての日常を捨てて彼女と悠久の時を過ごすつもりだったのか。
「ご主人様。……今一度ご主人様にお尋ねします。また、わたしとあのお屋敷へお戻りになられますか?」

 一呼吸置いて、私は言った。
「ただ、もう一度フランチェスカに会いたかったんだ」

 フランチェスカは微笑む。
「ふふふ、ありがとうございます、ご主人様。わたしも、今一度お別れを言いたく存じ上げました」
「フランチェスカ……君はこれからどこへ行く?」
「またあのお屋敷で次のご主人様を求めるか、遙かな時間の旅へ出かけるか、この右手の扉を開けて虚面世界へと誘われるままにまた"そら"へと行くのか……それはまだ分かりません」
「そうか……フランチェスカ……ありがとう」
「わたしの方こそ、ご主人様とすごした時間は忘れません。たとえ百万年の時が過ぎようとも。それでは本当にお別れです」
「ああ、フランチェスカ。元気で」
「ご主人様も、ご自愛ください。……それでは、時の針を進めることにいたしましょう」
 その途端、ざわめきがあたりに戻り、人々の群れがまた歩きはじめ、電車はホームへ滑り込む。
 僕はあたりを見回したけど、フランチェスカは……もういなかった。
 少しの間だけ僕は立ちすくむ。けれど、もう時は流れているのだ。僕はポケットに手をのばしてヘッドホンを耳にかけ、プレーヤーのプレイアイコンに指を触れた。プレーヤーから流れてきたのは『ペトルーシュカからの3楽章』だった。

(2010/5/29)

 

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