index >> 小説置き場「悪夢は」 >> この雨は

 

この雨は

--

 陰鬱な雲のたちこめた空から一粒の雨が落ちてきた。それを契機に、一斉に大粒の雨がアスファルトを打ちはじめ、またたくまにすさまじい土砂降りとなった。
 大雨の中、男が一人傘もささずに走っていた。男が雨やどりのために飛び込んだ先は、バス停の待合所であった。"待合所"とはいっても、三方を囲って屋根をつけ、中にベンチを置いただけの、田舎によくある簡素なつくりのものだった。
 次のバスは三十分後か。このままバスに乗るのもいいかもしれない。とにかくここを離れなければ。
 異常な興奮を抑えるように自分に言い聞かせると、男はベンチへ座り、激しい雨が車の通らないアスファルトを叩くのを見つめた。
 男は、人を一人殺してきていた。

 土砂降りの中からスッと浮かび上がった人影に、男はひどく驚いた。あたりが霞むほどのひどい大降りであり、また路面を見つめていたせいでもあるのだが、男は人影が近づいてくるのに気がつかなかったのだ。
 待合所に入って来たのは、黒いマントを着て長い黒髪に黒い帽子をかぶった若い女だった。そのいでたちも少し変わってはいたが、もしも男が冷静だったならもっと奇妙なことに気がついたであろう。傘をさしてもいなかったのに、彼女は少しも濡れていなかったのだ。
 落ちつけ、あせらなくてもいい、この女は知らないのだから。
 込み上げてくる不安を押さえつけるように男は自分に言い聞かせた。
 だが、それは無駄だった。
 男の横でベンチに座り、激しい土砂降りを見つめていた女が独り言のようにつぶやいた。
「人一人殺した気分はどう?」

 なに? なぜ? どうして? この女? 知ってる? なぜ? 見られたのか? そんなはずはない! しかしなぜだ!? 知っているのかこの女、俺が殺したことを―。
 どうする?
 男は、自分のカバンを一瞥した。それには、金と―凶器のナイフが入っていた。
 喋られたらまずい。殺すか。そうだ、それが手っとり早い。一人も二人も同じことだ。

「―そう、私を殺すのもいいかもしれない。ただ、今日は日が悪い。なぜなら―この雨は"死者を甦らせる土砂降り"だから」
 女は、初めて男の方を向いた。その目は、遠くを見ているような、うつろな目だった。
 立ち上がると、彼女は茫然としている男を残し、現れたときと同じように、また雨の中へ消えていった。
 男はひどく混乱していた。
 どうした。立ち上がれ、追いかけてあの女を殺すんだ。
 だが、体がいうことを聞かなかった。

 雨はいよいよその激しさを増す。
 男は目を閉じてじっとその雨音に聞き入っていた。
 幻だ。そう、幻を見たんだ。どうかしてる。このひどい雨のせいだ。
 "死者を甦らせる土砂降り"
 女の言った言葉を思い出し、男は目を開けた。
 雨の中を人影がこちらへ近づいてくる。男はひどく胸騒ぎを憶え、その人影を見つめた。

 人影は、ゆっくりと、近づいてくる。まるで、歩くのが久しぶりであるかのように。

 この雨は死者を―
 目の前に立つ"もの"が何であるかわかったとき、女のこの言葉だけが男の頭でこだましていた。

 

(1990/7/14)

 

back