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このいとおしいせかい

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 黒猫が頬を舐めていた。50ccのバイクはバラバラに砕け散っている。比較的冷静にそれを観察してから、自分を見た。
 自分の下半身が、無い。ああ俺は死ぬんだなと思い、奇跡的に無傷で転がっていた携帯でメールを打つ。
『美影。愛してる。じゃあな』
 あたりが騒がしくなる。顔の側にいた黒猫は、まるで、携帯で助けを呼ばなかったことに当惑しているかのようにこちらを見ていた。下半身が千切れ飛び、肋骨が折れて肺に刺さり、頭蓋骨もやられて脳が腫れ上がっている、こんな状態でどう助かろうというのか。
 じゃあ、考えている俺はなんだ? 自分の死体を見下ろしてこうしてやけになっている俺はなんなんだ?

「どうして助けを呼ばなかったの?」
黒猫が上を見上げて問いかける。
「どうせ死ぬんだ、最後は彼女に別れを告げたかった、ただそれだけの話さ」
サイレンの音が聞こえてくる。

「人間はこうして選択していくんだよ」
もう何も見えない。何も聞こえない。何もない。

 黒猫は消え去った魂のかけらから、また一つ世界を学び、また世界をいとおしく思った。判断者に会ったら話してみよう、このことを。
 そう思うと、まるでさっきの青年が観察者だったような、それとも自分が観察者のような、不思議な気持ちになって、その場をあとにした。

 

(2010/10/13)

 

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