index >> 小説置き場「悪夢は」 >> 彼はランナー

 

彼はランナー

--

 教室の戸を開ける大きな音で俺は目を覚ました。午後の五限目、しかも数学の授業だったので、俺は気持ちよく寝入っていたのだ。寝ぼけまなこで入り口を見ると、もう死にそうなじいさんが息を切らして立っていた。そしてよろよろと中へ入ってくると、俺の机の脇へ倒れ込んでしまった。
「だいじょーぶですか!!」
「こ、これを・・・」
差し出されたものを思わず受けとった俺はどぎもをぬかれたて飛び上がった。
「これはー!!」
教室のみんなの視線が俺の手元に集中する。誰かが叫んだ。
「ランナーのバトンだ!」
「赤沼はランナーだったんだ!!」
俺は脱兎のごとく駆け出し、教室を飛び出した。後からみんなが追ってくる。
「赤沼くーん!」
「赤沼がんばれ!!」
階段を駆け下り玄関から飛び出す。みんなの声が遠くになって行く。
「赤沼ぁっ、死ぬなよー!」

 商店街のアーケードへ走り込んでいく。もう夕方なので大勢の人でごった返している。
「すいません、どいて下さい、あ、すいません」
「きゃ、ちょっと、なにす―」
その後の言葉は聞こえてこなかった。後ろで叫び声が上がる。
「ランナーよ!!」
「ランナー!?」
「ランナーだって!?」
「すいません、通してください、俺はランナーなんです!!」
 もう息が切れた苦しげな声で、それでも精一杯叫ぶと、人ごみは左右にさっとわかれた。異様な雰囲気の中、人々の視線を浴びながら俺は走り続けた。のどがかわいてきた。もう走りたくない。
 どこかで声が上がる。
「ランナーがんばれ!」
「負けるな!」
 前方のファストフード店から店員の女の子が駆け出してきて、俺に並走し、俺に紙袋を突き出す。
「あの、これ、がんばってください!」
 中を見ると、ハンバーガーとオレンジジュースだった。ありがたい。ジュースを一口飲むと俺は商店街を駆け抜けていった。

 今何時だろう。俺は時計をもってないし、携帯も置いて飛び出したから時間が分からない。多分九時か十時か。
 TシャツもYシャツももう汗でぐしょぐしょだ。できれば学ランを脱ぎ捨てたいが、もしかしたら夜通し走らなければならないかもしれないのでそれはできない。さっきから脇腹が痛み出してきている。くつづれか何かで足も痛い。
 このまま次のランナーが見つからなかったらどうしよう。どこかで力つきて、そのまま死んでしまうのだろうか。
 だが、そのとき俺にはわかった。この近くにいるので、次のランナーが。

 マンションの階段を駆け登り、その家の呼び鈴を押す。ドアの前でぐるぐると回っていると、女の人がドアを開けた。
「どちら様 ―あっ!」
 俺は女の人を突き飛ばし、土足のままキッチンへ駆け入る。そこには、残業を終えようやく帰ってきたらしいこの家の主人が食事にありついている最中だった。俺はその人に向かってバトンをつき出し、そのまま床へ倒れ込んだ。
「こ、これを!!」
 バトンを受け取った主人は立ち上がり、口の中にほおばっていたものを吹き出しながら叫んだ。
「俺はランナーだっ!!」

「あなた、がんばって」
「お父さーん」
 駆けだしていった主人を気遣う妻や子供の声を聞きながら、俺はランナーという大任を果たした充足感と全身の疲労感を同時に味わっていた。

 

(1992/10/30)

 

back