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言えなかった言葉

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(あの時、私は彼女に何も言えなかった。ただ彼女の笑顔だけが目に焼きついた。それっきり二度と彼女には会えなかった。)


 少し風の強い、暖かい春の日曜日の昼下がり、私は息子にせがまれて近くの公園でサッカーの相手をしてやることにした。六歳になる息子はボールを抱え、公園に先に走っていった。私は後からゆっくり歩いていったのだが、もうとっくに一人で遊び始めているだろうと思った息子の姿が見あたらない。
 ベンチの周りに五六人の子供が集まって何かを見ていたのだがその中に息子はいた。何だろうと思い近づいてみると、ベンチに座った高校生くらいの髪の長い女の子が手品を子供達に見せていたのだった。だが、私の目は、手品ではなく女の子の顔に釘付けとなっていた。
 似ていたのだ、"彼女"に。

「ハイ、これでおしまい」
「エーッ、もっと見せてよ」
「ゴメンネ、もうタネがないの」
「パパ、すごかったね、パパも何かできる? ねえ、パパったら」
 女の子はベンチから立ち上がり、赤いリボンのついた黒い帽子をかぶると、私に微笑みかけてきた。
「何か?」
「いや――知った顔に似ていたものだから・・・」
「それは私だったのかもしれませんよ」
「ええっ? まさか――もう二十年以上前の話だしそれに第一彼女は――」
 変なことを言う子だ。その顔は微笑んでいたが、その目はまるで何も見ていないかのようにうつろだった。いや、逆にもしかしたら全てのことを見通しているのかもしれなかった。
「彼女に会いたいのね――」
「え?」
風が、止まった。

 穏やかな海だった。船は波間をゆっくりと進んで行く。僕と彼女は甲板から海を眺めていた。陽光が反射してきらきら光っている海面がきれいだった。
「会いに来てくれてありがとうね。とってもうれしかった」
「高校進学で島を出るって聞いた時からいてもたってもいられなかったから・・・必ず見送りに来ようと思ってたんです」
「――そうなの――」
「僕も来年――その高校を受けようかな」
「それじゃしっかり勉強しなくちゃね」
 そう言って彼女は微笑みかけて来た。その笑顔がとてもまぶしかった。僕は、それに励まされ、思い切って言ってしまった。
「あの、僕――好きです、あなたのことが」
彼女は少し驚いたようだったがやがて優しく答えてくれた。
「――ありがとう、あたしもあなたのことが好き」
「本当に?」
「ええ――その言葉を聞いたから、もう私は思い残すことはない」
「え?」
彼女は少しさびしげな表情になった。
「さあ、あなたはそろそろ帰らなくちゃ」
「帰るって・・・僕はまだあなたと一緒にいたいです!」
「思い出しなさい――あなたには待っている人がいるのよ」
「え。・・・あ・・・ああ」
そうだ、私には妻や息子がいる・・・。

 私はあのとき、船には乗らなかったのだ。
 私は何も言えず、ただ無言で岸から見送っただけだった――。
 そして彼女は――あの日彼女の乗った連絡船は、事故で海に沈んだのだった・・・。
 私は目をしばたいた。船が、美しい海が、次第にかすんでゆく。そして彼女も。目に涙をためて彼女は言った。
「さあ、そろそろお別れしなきゃ」
「待って、行かないで!」
「さようなら、あなたとはこうして会えたから、私はもうさみしくない」
やがて全てが溶けていった。

「パパ、パパったら、早く遊ぼうよ、もう、ママに言いつけちゃうよ!」
風が吹いている。私の目の前にはあの女の子がいた。女の子は軽く会釈をして歩き始めた。
「待ってくれ、今のは一体――私は――彼女は――?」
「あなたは彼女に会った。彼女は確かにあなたの言葉を聞いた。そしてあなたはもう後悔することはない」
そう言うと女の子は少し微笑み歩き去っていった。

 

(1992/3/3)

 

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